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入門

レタッチ

イスとか机とか形あるものは見ればわかるので教えるのは簡単です。でも概念とか観念とか考えに相当するものは形がないので、わかりやすく説明するのに例えを利用します。中3くらいになると、例えは本論の付録に過ぎないことがわかっているので最後まで静かに結論を待ちます。要点をスナイパーのように狙い撃ちしているわけですね。ところが中1はまだ目先のことで精いっぱいなので、本気で照れたり、本気で笑ったり、本気で突っ込んだり、ただのたとえ話に手に汗握ります。中1生は毎日が大冒険です。

昨晩の授業は世界恐慌でしたが、そのときヒトラーに触れる機会があり、すかさず生徒が「嫌われる勇気の人だ」と言うので「それはアドラーだね」となりました。本人は少し照れていましたが、アドラーは20世紀を代表する高名な哲学者の一人で、最近でも書籍やテレビで受け取り上げられています。よく知っているなと感心しました。

本屋さんに行くと哲学書のコーナーがあります。哲学とは言葉で真理を探究する学問です。我々の祖先は世界や人間について知ろうとし、言葉を発達させました。ところが言葉を持つだけでは、モノに名づけたりモノの名あてに過ぎなく、それ以上の世界と人間の関わりについては理解が進みません。結局、よくわからない世界の不思議はすべて神さまによるものとされていました。

やがて各地で都市が発達すると互いの神話同士も交わります。創作に基づいた思想の出会いは明らかな矛盾が発生します。そこで人々は神話に依らず正しくものを考えようと試みます。哲学の始まりです。哲学の中心は考えることですから、人類史に与えた功績は多大です。古代ギリシャの哲学者プラトンは、優れた国家には正しく考える知恵が必要だとして、哲学者による哲人政治を唱えます。プラトンは、哲人政治を行うための政治家を育てるためアカデメイアを設立します。大学の始まりです。

哲学ほど入門書の多いジャンルはありません。入門書が多い理由はまず売れるということ、多くの人が興味を持っているということ、そして難しいということです。きちんと理解するためには原文を読むことが誤解が少なくいいのですが、オリジナルは大変難しくたじたじです。また哲学者の語りは、表面的には同じテーマでも、求めるのは真理の探究であるため、世界や人間、宇宙や自然、政治や経済、国家と個人、あらゆる筋を通した上での発言ですから、導かれた答えが一般論とはかけ離れている場合が多々あります。

先ほどのアドラーの「嫌われる勇気」も嫌われることを奨励しているのではなく、やるべきことをやるためにそれぞれの使命を全うするときの心構えのようなものです。やるべきことというのは、ここでも一般的なものではなく、それはカントの定言命法を経由した超越論的なもので言うなれば神の視点においても矛盾のないものを指しますしすし、カント自身はデカルトの方法序説を、デカルトはアリストテレスの目的論的自然観を、アリストテレスはプラトンを、プラトンはソクラテスを、ソクラテスはプロタゴラスを・・・という様に、哲学は常に時代のカウンターとした側面をもって生まれくるため、正しく学ぶと歴史の授業にもなってしまいます。大抵はそこまで求められているわけではないため、そこで気軽な読書を求めるなら入門書、ということになります。ただし世界や人間に関する天才たちの叡智の深淵をのぞくわけですから、哲学は入門書であっても相当な解読が求められます。ちなみに、正しい読み書きの学びにしぼって、もう少しカジュアル化した学問が国語です。

近年哲学という学問は一応の決着をみせています。僕らは目や耳といった不完全な器官に規定されて世界を観察します。そもそも見えないもの聞こえないものが多すぎるのに、さらに同種のものであっても人によって感じ方は異なります。またせっかくの言葉も取り方が異なります。哲学史の最も初期に相対主義という考え方があります。世界の捉え方は人それぞれという身もふたもない発想です。3000年かけて一周したわけです。その後、哲学が説明不能に陥ったものごとにおいては、20世紀以降科学や数学がタスキを受け継ぎました。相対主義は、世界の表象が観測者に委ねられると量子力学が証明しています。

勉強も入門書が多いジャンルです。勉強の入門書が多い理由は、ひとつには普遍度が高く必要とされ売れること、興味を持つ人が多いこと、そして未解決であることだと思います。勉強の仕方は相対主義です。10点の子と90点の子では学び方は違います。言葉に強い子と数字に強い子も抱える得手不得手が違います。せっかちな子とのんびりした子も違いますね。勉強の入門書に決定版を聞かないのは読む人次第であるということが考えられます。読書は素晴らしい行為ですが、どうにも答え合わせがないことが悔やまれます。読むとわかるは必ずしも一致しません。また独学は望ましくないクセがつくこともあります。正しい学びについてはやっぱり先生がいたほうがいいですね。

入門書に求める点は効率の良さですが、こと教育に関しては間を飛ばして最初から求められることではないです。何が無駄で何が効果的であるかは、一定の学習量の末に、頭を鍛えてようやく見えてくるものです。・・・などと思っていると不意打ちです。時間が経って一周回ると、シンプルで基礎的な勉強の力強さに気づくこともあります。始めること、続けることで、目的に沿って勉強の仕方が少しずつ上手くなった生徒たちが文理に多数です。

文理学院オフィシャルホームページ

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