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2011年12月03日

英文音読について

 こんにちは。大西先生です。今回は‘音読’について書いていきます。この‘音読’という言葉は‘狭義にも広義にもとることができつかみどころがない’のも確かです。ここでは‘英語学習における音読の定義’を順を追って共有していきましょう。

 ‘言葉’は第一義に‘意味ある音’であり‘コミュニケーション(情報伝達)の手段’であります。その‘音を声に出して言葉(メッセージ)に変える’という‘音声の言葉化・メッセージ化’‘言語行為そのもの’といえます。‘音読’は額面どおりにとらえると‘(英語学習では基本的に自分以外の誰かが書いた)文(章)を声に出して読む行為’です。‘誰か(書き手)が文字で残したメッセージ’を‘自分(読み手)の声で音として復刻させる’二者間の‘情報共有行為’ともいえます。

 その際に‘書き手のメッセージが読み手に伝わって(理解されて)初めて情報共有行為となり得る’のです。‘音読は初めから文字情報がある’ものです。まずは‘文字情報の段階で書き手のメッセージを理解する’ことが大切です。外国語では‘文字(文・文章)で理解できない情報’‘音(読み手の声)で理解できる’ということは極めて稀なケース(Aye aye,sir.[(英音)アイアイサー]「了解しました」etc)です。‘書いてあることの意味が分からないまま闇雲に音読し続けても英語の発音は上達しても造文発話力や聴即解力は(なかなか)上達しない’でしょう。

 英語の歌に例えてみましょう。歌詞の意味が単語の面でも文法的にも分からないまま対訳を丸暗記します。片仮名ではなく英語の発音でメロディーにのって情感的に歌えるようになったとします。それではその人はメロディーがない状態でいわゆる‘言語としての音読が出来る’でしょうか。対訳を頼りにしてもその‘英語の歌詞のありのまま感情を込めて読み聞かせることが出来る’でしょうか。答えは‘No’でしょう。決して歌手の方のスキルを否定しているわけではありません。あくまで‘ものの例え’です。要するに‘外国語学習では音読でも語彙と文法は絶対に理解が伴わなければいけない’ということです。

 ‘この点’が‘音読絶対信仰の落とし穴’といえます。‘同時通訳の神様’として名高きかの‘國弘先生’‘中学校時代英語の教科書を各ページ五百回以上音読した’という‘エピソード’は日本英語学習者間では‘神話化された事実’であり、この‘國弘(先生)神話’が現在の日本英語学習における‘音読絶対主義・回数絶対主義’信仰の‘最大の拠り所’ともいえるでしょう。確かに‘音読がどれほど英語学習において大切であるか’をこれ以上雄弁に物語る‘実例’はそうないでしょう。

 たかが私如きが言うのもはばかられますが國弘先生のその‘英語への情熱’に心から誠の敬意を感じずにいられません。はるか次元は違えども同じ一英語学習者として‘どれだけの痛みを越えて身に付けた英語力か’はこんな私にも分かります。‘イチロー選手’や‘世界のホームランキングの王さん’が恐らく‘誰よりもバットを振った’のと同じでしょう。‘神々しい’とはまさに‘このような人’のことを‘例え称える言葉’でしょう。しかしです。たかが私如きがあえて‘声を大にして伝えたいこと’があります。それは‘ただの回数ではないのだ’ということです。

 考えてみましょう。‘イチロー選手’が‘何となく・大体で’バットを振ってきたでしょうか。‘王さん’が‘適当に’真剣(日本刀)で素振りをしていたでしょうか。‘國弘先生’が‘英単語の意味も英文法も分からないまま音読をしていた’でしょうか。このような‘神々しき人’に‘このような例えの文’を書くことにすら私は罪悪感を感じます。イチロー選手‘全てのスイングに意図がある’でしょう。王さんは文字通り‘真剣の一振り一振りに魂を込めた’でしょう。國弘先生‘知らない単語は意味を調べた’でしょう。‘意識していなかったとしても文法も理解していた’でしょう。‘音読する前の文字の段階で教科書の英文を単語でも文法でも理解していた’でしょう。その‘理解した英文’を‘血の滲む程’の‘音読の実践’で‘体に刻み続ける’ことで‘國弘先生’は‘神の域(英語母語上級者と同等以上)’まで‘到達した’のでしょう。

 最近の英語学習におけるいわゆる‘音読’という言葉にはどこか‘音読さえしていれば英語は自然に出来るようになる’という‘甘美な響き’があるように私には感じられます。‘ひたすら音読さえしていれば英語は大丈夫’という‘妄信的幻想’があるように感じられます。確かに‘音読は絶対に必要’です。しかし‘精神論・回数論だけで済むほど単純でもなければ非科学的な要素だけでもない’ということです。‘語彙力と文法力を補えるものでもなければ神秘的な力や魔法でもない’ということです。‘言葉そのもの’が‘神秘であり魔法’です。‘外国語学習に万能薬もなければ特効薬もなし’です。

 今回はこれで終わりとします。長いですよね。お疲れ様でした。私も疲れました。読んでくれた方にはただただ感謝です。言葉は真に人類が創り出した‘頂きなき山’であり‘岸辺のない海’であり‘果てのない宇宙’ですね。次回のテーマ‘言語の両翼’である‘ボキャブラリーと文法’をいかにして‘音読という言葉のテストフライト(試験飛行)’に‘結びつける’かです。‘音読’は‘すがりつきあやかるための最後の望み’ではなく‘英語学習の希望そのもの’です。またよろしくお付き合い下さい。どうもありがとうございました。


 



  

 

 

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